2010年10月20日水曜日

「桜田門外の義挙」その時 大久保利通は

2010年秋、映画"桜田門外ノ変"が公開されています。
この義挙で井伊直弼の首級をあげたのは 薩摩隼人 有村次左衛門なんです。凄いですね~。
有村雄介・次左衛門兄弟の誕生之地は大久保利通誕生之地から歩いて数分の所にあります。
維新のふるさと 加治屋町界隈地図
この義挙の頃の大久保どんの足跡を追っかけて、オバチャンはまた 本をめくり ネットで検索するのであります。

★参考図書★
「幕末政治と薩摩藩 佐々木克著 (吉川弘文館発行)2004.10.20」
「薩摩熱風録 有村次左衛門と桜田門外の義挙 渡辺宏著 (南風新社発行)2006.7.1」

1858(安政五年)
4.23 彦根藩主井伊直弼大老就任
6.19 勅許無しの日米修好通商条約調印 
6.25 紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣に正式決定
7.16 島津斉彬急逝 
9月 安政の大獄始まる
11.16 西郷・月照入水 西郷蘇生
11.29 西郷 島送りの処分決定。西郷の後は大久保が誠(精)忠組を引っ張っていくこととなる。

1859(安政六年)
1.2 山川港の西郷に大久保の手紙を伊地知正治が届ける。
2月初め、有村雄介江戸に発つ。3月中旬江戸着。
6.21 水戸の金子・高橋と薩摩の堀・樺山が「井伊ヲ除ク」の密談をする。9月中旬に決行予定が後に変更となる。
9.4 大久保から江戸の堀・有村雄介宛てに手紙を出し、「突出」の心構えを伝える。
9.17 江戸から樺山が伊集院に到着。大久保ら誠忠組「突出」の決行を決意。
しかしこの「突出」は無くて、「突出」体制は続いていく。
11.5.6 薩摩藩主茂久・久光より大久保に書簡が届く。
11月下旬 大久保は江戸の誠忠組に 挙藩一致してやることに決まった旨を手紙で連絡する。
11月中旬 高崎・堀に帰藩が命じられる。翌年正月5日に帰藩。江戸は有村兄弟と山口・田中の四人となる。
12月下旬 大久保が自ら出府し同志の説得をすることを藩庁に嘆願するが許可されず。

1860(万延元年 安政七年)
1.10過ぎ 江戸薩摩屋敷にて水戸藩士の木村聿・畑以徳・内藤幸介と有村雄介・有村次左衛門・田中直之進らが会い、井伊大老襲撃計画を告げ相談する。薩摩藩には京都守衛のための出兵をお願いする。
1.19 山口が薩摩に派遣され、三千の出兵と応援の出府を働きかけることとする。2.4に薩摩着。山口の報告を受け大久保らは、書面で久光と主席家老島津下総に報告。堀が江戸出張許可となる。
2.18 堀が薩摩を出発。その間の打ち合わせで、「変事」があった場合 禁裏守衛のため藩兵を派遣する体制が作られた。3.13に藩主茂久の参勤出府も予定されていた。
2.21 江戸から田中が薩摩着。(2.1に江戸発。)この時、江戸には有村兄弟のみ。
1.27-1.末までの新たな大老襲撃の計画を報告。田中が江戸を発った後、さらに有村兄弟と水戸側で話が煮詰められ、斬奸の目標は井伊大老にしぼられ、場所は「桜田外」となる。有村兄弟はすぐにも加勢するが、他にも相談すること、薩摩から三千人上京が確約できること、ただしできれば田中が江戸に帰るまで待ってほしいことなど水戸側に述べる。田中の報告を聞いて「同志中勃起イタシ」と大久保は日記に記す。
2.21 大久保利通は家老蓑田伝兵衛と児玉雄一郎を通して久光に出兵を内願する。大久保は出兵の建白書を藩庁に出す。
2.23 久光より「未前」の出兵は出来ないとの返事。誠忠組で大議論の末、自重論となる。誠忠組は久光の意見に従う返事をし、26日藩庁から「変事」の報があった場合は人数を繰り出すという返事がある。
2.25 田中は江戸に出発。
3.1 日本橋西河岸の山崎楼に木村・関・斉藤・稲田・佐藤・雄介・金子集合。襲撃の期日は明後三日とする。
☆ 3.3  井伊直弼桜田門外で襲撃される。有村次左衛門が井伊の首級をあげる。重傷を負い自刃。
3.8 藩主茂久の参勤発駕の付き人に誠忠組は外される。
3.11 大久保は初めて久光に面会し、誠忠組の心情を伝える。
3.13 藩主茂久は参勤初駕出発。変報を知り23日筑後松崎駅から病気を理由に引き返す。
3.23 桜田門外の変が藩庁に届く。この夜、有村雄介薩摩着。切腹を命ぜられる。「愁傷憤慨、不可言」と大久保は日記に記す。
3.24 大久保は久光邸に行き出兵を要求するが、これは水戸脱藩浪人による事件で「兵乱」とはみなせない・・諸々の理由で出兵ならず。事態が動けば出兵もありうるという久光の言葉に期待して引き下がる。
誠忠組の「突出」は一度も実行されることなく終息するのである。


来年三月九州新幹線が全開通します。鹿児島中央駅から維新のふるさと加治屋町はすぐです。
ぐる~りと散策出来ます。薩摩隼人達の熱い想いを感じてみませんか。

上記の間違い等は管理人の自己責任でありまする。お気付きの点などご指導いただけると幸いです。メール

2010年10月6日水曜日

島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して     その1

(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その3

★参考図書★
「国乃礎 杉本勝二郎編 (国乃礎編輯所発行)明治28年発行」(O本)
「西郷と大久保と久光 海音寺潮五郎著 (朝日新聞社発行)1978.10.10」(P本)

島津三兄弟 珍彦・忠欽・忠斉は
忠斉→忠済のようです。五男・六男・七男説がありますが、O本には第六子安政二年三月九日生とあります。

O本P40-45が島津忠済公爵のページです。古い文体で書かれています。オバチャンには難しい文体であります。エライコッチャ (TT;
ここには忠済さんのことよりも父親久光公の足跡が書かれていて、P41-42に文久2年3月上京のことが書かれています。
忠済さんは父親久光公の上京と何らかの関係があるのでここに書かれているのかも・・そうに違いない・・というのがオバチャン流解釈です。(^^;
大坂薩摩屋敷にいたとすると、先発したことになりますね。

☆この「国乃礎」本は、鹿児島県立図書館の相談員の方にご協力いただきました。心からお礼申しあげます。m(..)m

P本P194に、岩下方平・町田久成さんが二百人の兵を率いて汽船で日向の細島から大坂に向かい、久光公が八百の兵を率い総数千人ということが書かれています。
忠済さんは当時満7歳ですから、陸路より海路を選んだと思われます。
久光公とは別行動の可能性がありますね。
島津三兄弟は海路で上坂したのではありますまいか~。

島津兄弟の資料をもう少し探してみたいと思います。
来年以降になるかもしれませんが・・しばらく・・お待ちくださいまし。

2010年8月23日月曜日

「龍馬の写真」について

★参考図書★
「上野彦馬歴史写真集成 馬場章 編者 (渡辺出版発行)2006.7」(G本)
「日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち 木下直之 資料篇 (岩波書店発行)1997.9」(H本)
「坂本龍馬写真集 宮地佐一郎著(新人物往来社)1989.1」(L本)
「幕末・明治古写真帖 菅 英志発行者(新人物往来社発行)2003.3」(M本)
「お龍 植松三十里著 (新人物往来社)2008.3」(N本)

L本(P259)によると
龍馬の現存する写真(1989.1月出版当時)は下記9種類あるそうです。(括弧内は管理人の選択)
1.卓子台によって懐手の立ち姿の写真。慶応2年頃、長崎で上野彦馬撮影。(P225,No409)
2.長刀をたばさんで椅子に腰掛けやや横向きの姿の写真。三吉家の御子孫所蔵。(P4,No10)
3.文久2年(1862年)下関か萩で撮ったといわれる最も若い時の写真。(P226,No412)
4.上半身のもの。寺田屋お登勢さんの御子孫所蔵。(P222-223?)
5.上半身のもの。京都霊山歴史館所蔵。(P226,No410)
6.上半身のもの。高知秦家所蔵 慶応弐年壱月長崎上野彦馬撮影。(P1,No1)
7.「Japan Shyashinshi」の刻字のあるもの。京都井口家所蔵。(P226,No411)
8.龍馬と伊藤助太夫・その使用人三人が座った写真。慶応年間長崎で撮影。伊藤家御子孫所蔵。(P3,No8)
9.海援隊士と一緒に6人で撮った写真。(P227,No413)

また、P86には「海舟を囲む龍馬写真」を新出写真とし、後考に委ねたいと書いておられます。

上記L本にない写真がM本の表紙にあります。
龍馬が縁台に腰掛けた写真が掲載されています。慶応2年(3年?)10月末 福井で撮影されたといわれているそうです。

N本(P132-133)には(括弧内のナンバーは管理人が上の写真から推測)
龍馬がお龍さんに上野彦馬の店で撮ってきた4枚の写真を渡し、好きな写真を選ばせています。
一枚は亀山社中の仲間6人で撮った写真(9)、龍馬一人の立ち姿の写真(1)、一人で椅子に腰掛けた写真(2)、胸から上の写真(6)の4枚です。
お龍さんは胸から上の写真(5or6?)を選んでいます。この本の後方には、姉乙女さんの所に立ち姿の写真(1)があったと書かれていました。

H本(P5)には
立ち姿の写真(1)が掲載されています。1866年撮影。

G本(P19)には
椅子に腰掛けた写真(2)が掲載されています。これは1867.1月に撮影されたものと推測され、三吉慎蔵が龍馬から譲り受けたといわれています。


上記、「龍馬の写真」をご覧になりたい方の参考になれば幸いです。
尚、括弧内の写真のナンバーは管理人の推測であります。間違いなどお気づきの方、ご指導いただけると幸いです。

坂本龍馬ゆかりの地鹿児島もご覧くださりませ。

2010年8月10日火曜日

写真を写したのは誰ダ???  その3

幕末小説から推察してみました。

★参考図書★
「大西郷謎の顔 芳 即正編著 (著作社発行)1989.12」(B本)
「寺田屋騒動 海音寺潮五郎著 (文藝春秋発行)2007.12」(J本)
「寺田屋お登勢日記 徳永信一郎 (新人物往来社)1973.2」(K本)

B本P117に
明治三十五年発行の「東洋日の出新聞」に、上野彦馬がこれまでに撮影した著名人に西郷隆盛の名を挙げていると書かれています。(日下藤吾氏の頁)
上野彦馬は西郷どんを撮影しているのです。

J本P256-7にある大久保利通の足跡
「三月三十日朝十時頃下関出帆 四月五日夜八時頃大坂着 大坂の藩の定宿寅屋一泊 六日早朝大坂藩邸へ行く 十時頃三十石船に乗る」
この足跡から考えるに、当時の照明では4月6日早朝から十時の間に撮影されたと考えられます。
大坂薩摩屋敷は上屋敷・中屋敷・下屋敷とあったようです。そのいずれかに臨時の写場をつくることも可能ですね。

K本P237から引用します。
(川田瑞穂という人が、彼女(お龍さん)を訪ねて写真を撮りたいというと「西郷さんとの申し合わせで、一生写真をとらないことにしている」といったが、「西郷さんの写真はありますよ」というと、それではということで一枚撮らせてくれたという)
西郷さんの写真があると書かれています。

そぎゃん、こぎゃんで・・・
★オバチャンの独断と偏見のかって気ままな推察★
1862年4月6日早朝から十時までの間、大坂薩摩屋敷(上・中・下屋敷のいずれか)に上野彦馬が臨時の写場を設けて"西郷群像写真"を撮影したのではありますまいか~。
当時高価な人物専用のカメラを持っていたということ、1862年に大坂にいた可能性が考えられるということ、本人が西郷どんを写したと新聞に書かれていることなどから推察しました。

では、なぜに内田九一の原板倉庫に"西郷群像写真"の原板があったのでしょうか。
参考資料はありません。独断と偏見の推察です。
3年後の1865年に、弟幸馬・内田九一が大坂天満に開業するにあたり、保管しておいた背景の置物・手置き台・写真原板などを受け継いでもらうべく、開業祝いにプレゼントされたのではありますまいか~?

このように考えると諸々の謎が解けませんか

歴ババ気分のオバチャンの推察、信じる・信じないは自己責任ぜよ♪


次回の「島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して」ですが、
しばらく資料が見つかりそうにありませぬ。

あれこれ調べていると龍馬の写真も目につくようになりました。
そこで、脱線して「龍馬の写真について」簡単に調べて見たいと思います。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」 いよいよ薩長同盟ですね。
因みに、予告編によると上野彦馬は8/22放送に登場するそうです。

写真を写したのは誰ダ???  その2

上野彦馬の1862年頃の詳細年譜または決定打なる資料はまだ見つかりませぬ(気付いてないだけかも)・・・
が、オバチャンの独断と偏見でかって気ままな推察を書き連ねてみたいと思います。(^Q^;

幕末写真から推察してみました。

★参考図書★

「上野彦馬歴史写真集成 馬場章 編者 (渡辺出版発行)2006.7」(G本)
「日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち 木下直之 資料篇 (岩波書店発行)1997.9」(H本)
「写された幕末 石黒敬七コレクション 石黒敬七著 (明石書店発行)1990.4」(I本)

推察したこと。
1.背景の置物は固定ではなく移動可能と思われる。
2.背景の置物・手置き台などは似て非なるものもあるが、同じものが複数あっても不思議でない。
3.スタジオバックで分析するのは難しいのではありますまいか~。

1.について
H本に掲載されている[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]でわかるように背景の置物の欄干は移動可能と思われます。例えば、大八車なんかで運べますね。

2.について
・同じくH本の上野彦馬撮影の[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]にみられる背景の欄干は、内田九一撮影の[18.刀を持つ侍][21.内田九一夫人像]の写真にもみられます。似ているようですが、ちょっこし違いますね。
・I本P70の上野彦馬撮影の[No3.彦馬の弟本庄鉄馬が写っている写真]の背景の欄干と、H本 内田九一撮影の[21.内田九一夫人像]の背景の欄干とは似ていますね。同じかな。
・G本上野彦馬撮影の[60.川上音次郎][65.二人彦馬][91.指輪をつけた女]に見られる手置き台と、I本P52の"西郷群像写真"に見られる手置き台とは、似て非なるものです。模様が違うのです。
上野彦馬はこのような手置き台を好んで使っていたのでは?

3.について
大八車などで移動可能ということは大坂薩摩藩邸内にスタジオバックを作ることも可能なのです。特定の写真館でなくてもよいのです。

因みに”西郷群像写真”はI本の52Pに掲載されています。石黒氏は西郷どん説ではなく、大木喬任説をとられています。


写真を写したのは誰ダ???  その3 へ続く

2010年6月1日火曜日

写真を写したのは誰ダ???

タイムリーというかなんというか、6月1日は「写真の日」だって知ってましたか~。
まだ・・結論は出てないのですが、「写真の日」にあわせて経過をUPしました。(^^;汗

(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察 その2
 写真を写したのは誰ダ???

"西郷群像写真"は1862年4月に撮影されたカモ・・という推測のもとで下記の本を読んでみました。

「写真術師 上野彦馬 八幡政男著 (マルジュ社発行)」(E本)
「幕末維新 ー写真が語るー 安田克廣編著 (明石書店発行)」(F本)

○ E本による上野彦馬の足跡

1858年 長崎で写真撮影に成功する。(P42-46)
1861年早春 伊勢津藩の堀江鍬次郎とともに新器械(カメラ)をもって、江戸の藤堂高猷(のり)の屋敷に出府。(P63)
1861年9月 藤堂藩主帰国に伴い一緒に津へ行く。津藩有造館洋学所助教として教える傍ら「舎密局必携」を書く。(P68-76)
1862年 彦馬数えの25歳。「舎密局必携」刊行。藤堂高猷のはからいで文溯堂伊勢屋治兵衛版元。(P76-77)(ネット調べによると1862年正月刊行)
この年に長崎に帰ります。帰る途中に京都の蘭学者広瀬元恭に「舎密局必携」を献本する。(P77)
余談ですが、この当時 写真は藩主の余興だったそうです。(P78)
長崎帰省後、内田九一、長崎の神代延祥・野口丈一、長州防府の亀谷徳次郎、熊本の富重利平などが出入りする。津から持ち帰った人物専用のカメラ操作を彦馬に教わる。(P95-96)(←←←京都に立ち寄った時も人物専用のカメラを所持していたと思われます。)
1862年 「上野写真撮影處」看板を掲げる。(P101)
1865年 弟幸馬・内田九一 大坂に出て天満に写真館を開く。(P150)

○ F本には上野彦馬の業績が詳しく書かれています。

第1章(上野一郎氏) P29に、西郷さんの写真は「ない」と書いておられます。上野一郎氏は上野彦馬の弟幸馬の孫になります。"西郷群像写真"は掲載されていません。
因みに弟幸馬は1869年に長崎を去り、神戸に写場を出したそうです。(P12)
第3章(姫野順一氏) P73に、1858年7月に上野彦馬は興福寺の境内で良順の撮影に成功したとある。
また、P88に上野撮影局の開設は1862年11月と書かれています。

☆ ほんでもって
「写真の日」に こんなんでました~

"西郷群像写真"は内田九一・幸馬が写したのではない。(1865年1869年に長崎を出ているという説による)
がしか~し、"西郷群像写真"は内田九一の原板倉庫から出てきたそうな。(B本P159)  (~--)/(^^;) なんでやねん! (上記の上野氏の所には無くて当然ですね)

広瀬元恭に献本した日時を調べるとヒントが見つかるかもしれませんが、4月前後だとすると上野彦馬が写した可能性も考えられます。
当時は薩摩藩士の寺田屋騒動(4/23)前の緊迫した状況です。密かに会っていたので写真のことも公にできなかったのでは?
上野彦馬の詳細年譜を探してみたいと思います。

写真の歴史も ちょっこしカジッタだけです。これからまた、ひょんなことで何か分かるかもしれません。
また、島津三兄弟の資料を探さねばなりません。次回はいつのことになるやら。珍情報があるまで お待ちくださいまっし。

ではでは (^^)/~~~~~

2010年5月29日土曜日

西郷隆盛と大久保利通の写真

(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察 その1

西郷どん追っかけ をしているオバチャン、偶然にも西郷どんの写真に辿り着いた感があります。

歴史を知ろうとすると、あちらこちらに飛んでその繋がりを知らねばチンプンカンプンになるのです。
平野国臣と伊牟田尚平の関係を知りたくて「革命の旅人 平野国臣の生涯 森田芳雄著 (新人物往来社発行)」(A本)を読んでいました。
P155に(臍の緒を切って初めての、記念撮影だけをして、京か伏見でゆっくり会おうということで別れた。) という箇所があります。
西郷どんは写真は嫌いだった・・とか、写真はない・・という説があるのに、この箇所から判断するに、平野国臣・西郷隆盛・大久保利道が一緒に写真を撮ったことになるのです。
ん??? これがやはり西郷隆盛の写真かも? カモ? 鴨? と本をめくり、ネットを検索してみました。

そして「大西郷謎の顔 芳 即正編著 (著作社発行)」(B本P113ーP132)の日下藤吾氏の考察がより近いのではと考えるようになったのです。諸々の考察がな~るほど~そうかも~と思えるのです。
撮影場所は大坂薩摩屋敷または大坂の写真館あたりとオバチャンは推測するのであります。なぜなら、京か伏見で会おうということなのでそれ以外に考えられるのは大坂です。
撮影日時は1862年4月5-6日頃です。「大久保利通 中村晃著 (PHP研究所発行)」(C本)によると、大久保利通は久光公と別れ1862年3月31日に下関から乗船し、4月6日夜に伏見で西郷どんと会っています。西郷どんの場合、22日に下関を出帆して27日に大坂着。30日に本田親雄の尽力で宇治万碧楼に潜伏中(「西郷隆盛年譜 山田尚二著 (西郷南洲顕彰会発行)」)。下関から大坂まで5日で到着したらしい。であるからして、大久保利通は4月5日-6日に大坂薩摩屋敷にいたのでは? と推定できるのです。上記のA本(P154-155)によると、大久保利通は密かに西郷どんと平野国臣に会っていたのです!!

"西郷群像写真"といわれている6人の武士が写っている写真がB本(1989年(平成1年)出版)にあります。
とうの昔に是非を問われていますが・・・、オバチャンの考察はこうであります。

向かって右側が平野国臣。なぜならば、日下藤吉氏が書かれているように腰にあるのは横笛と刀に見えるのです。拡大鏡で見てみたら下の方が笛(鍔がない)のように見える。他の5人は同じような羽織です。右から3人目の羽織に丸に十の字の紋が確認できます。5人は薩摩の人の可能性大。平野国臣は横笛を嗜んでいました。月照さんの入水の時も(A本P74)、真木和泉の面会の時も(A本P121)笛を吹いているのです。
右から二人目が西郷隆盛。ビコーズ、平野国臣は命の恩人です。肩に手を置かれても不思議ではないのです。
向かって左側が大久保利通。ビコーズ、B本P169に明治二年頃撮影された大久保利通と島津二兄弟の写真があります。3人の顔が上記の写真とよく似ているのです。明治という時代の島津兄弟は洋服です。大久保利通と島津兄弟は親しかったのですね。
残り3人は日下藤吾氏と同じく島津三兄弟だと思います。A本には島津三兄弟については書かれていませんが、島津三兄弟は久光公の上京に先立ち大坂薩摩屋敷にいた可能性大であります。

ちなみに司馬遼太郎の"「明治」という国家"にも"西郷群像写真"が掲載されていました。これが西郷隆盛と断定した書き方ではないようですが。

このように文字を並べたオバチャン "歴ババ"らしくなったぜよ~~~(^Q^)
上記 信じる信じないは自己責任ぜよ♪

次回の (~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その2は
写真を写したのは誰ダ???
そして (~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その3は
島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して。


追記:記述に一部不確実な所がありましたので、削除しました。お詫び申し上げます。m(..)mm(..)mm(..)m
2011.5.24

2010年3月4日木曜日

鶴丸城跡


大久保利通幕末時の役歴
1846年 記録所書役助
1857年 御徒目付
1861年 御小納戸役
1862年 御小納戸役頭取
1863年 御側役
鶴丸城(鹿児島城)跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館があります。ここに大久保利通関係資料が展示されています。また、愛用していた洗面具なども展示されています。ポマード瓶についていた毛髪から血液型がO型と判明したそうです。鹿児島県公式HP
平成22年2月26日から約1年間 坂本龍馬関係資料の展示も行われています。鹿児島県公式HP
近くには西郷隆盛が設立した私学校跡(現在 鹿児島医療センター)があります。石塀には西南戦争時の弾痕跡が残っています。

アクセス
シティビュー 薩摩義士碑前下車 市電 市役所前下車徒歩
カゴシマシティビューの案内


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2010年3月3日水曜日

造士館・演武館跡


中央公園南側にあります。
第25代藩主島津重豪創設。造士館では、教授・助教・都講などの指導者のもと、8-21・22才の城下士子弟数百名が 朱子学を中心にいろんな学科を学びました。庶民の聴講も許されていました。演武館は剣術・槍術・弓術・馬術など藩中武芸の中心道場です。両施設の運営資金は藩から出され、生徒からは学費を徴収しませんでした。無料だったのです。西郷隆盛・大久保利通など幕末維新期に日本の歴史を動かした多くの若者達がここで学びました。
近くには医学院跡もあります。
中央公園の近くには西郷隆盛銅像小松帯刀銅像があります。西郷隆盛銅像から鶴丸城跡黎明館まで「歴史と文化の道」を散策してみませんか。

アクセス
シティビュー 西郷隆盛銅像前下車 中央公園内、 または 市電 朝日通下車徒歩
カゴシマシティビューの案内


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2010年3月2日火曜日

薩英戦争記念碑


祇園之洲公園の北側にある薩英戦争記念碑です。
この公園に砲台跡の石碑があります。薩英戦争の時 活躍した砲台跡です。激しい戦闘の末、イギリスのアームストロング砲により破壊されました。当時、砲台は新波止・弁天波止・大門口・赤水・烏島・袴腰・沖小島・天保山に築かれていました。
ここの公園には西南の役官軍戦没者慰霊塔や五石橋を造った岩永三五郎之像などもあります。
祇園之洲公園と石橋記念公園は隣接しています。移設された3石橋の西田橋は石橋記念公園に、高麗橋玉江橋は祇園之洲公園にあります。
これらの石橋の上にも大久保利通の足跡があると 私は考えます。

アクセス
シティビュー ウォーターフロントコース 祇園之洲公園前下車
または、市電 鹿児島駅前下車 徒歩  JR鹿児島駅下車 徒歩


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2010年3月1日月曜日

小松帯刀屋敷(別邸)跡


1861年 島津久光公の御側役 小松帯刀・御小納戸役 大久保利通
1862年 小松帯刀 御家老
1863年 大久保利通 御側役
島津久光公の側近として共に活躍した小松帯刀の別邸界隈にも大久保利通の足跡があると思われます。
本邸は山下町にある小松帯刀銅像の後側 東郵便局近辺です。
ここの別邸には坂本龍馬が宿泊しています。1865年・1866年に薩摩を訪れた龍馬は、二度とも小松別邸にお世話になっています。龍馬の足跡もこの界隈にあるのです。
小松帯刀屋敷跡

アクセス
市バス かけごし下車徒歩 JAかごしま農協前を通り過ぎると案内板がある。 または、千眼寺跡から徒歩。

鹿児島市交通局HP


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2010年2月11日木曜日

千眼寺跡


薩英戦争本陣跡です。1862年8月におきた生麦事件は1863年7月の薩英戦争へと発展していったのです。島津久光・忠義父子はここ千眼寺に本陣を敷き総指揮を執りました。鶴丸城は海岸に近く危険なので、離れた西田村(現常盤町)に本陣を敷いたそうです。大久保利通・小松帯刀もここで指揮に当たっていました。大久保利通はイギリス艦隊を視察するために屋根に上り、雨上がりの瓦で滑って転んだらしい・・・。後に、薩摩とイギリスとの間に講和が結ばれています。
尚、千眼寺は廃仏毀釈により廃寺となりました。
ここの近くに西郷家の墓地があります。原良町の方へ歩くと小松帯刀別邸跡があります。

アクセス
市バス 西田小学校前下車 徒歩 人家の敷地内にある。

鹿児島市交通局HP


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2010年2月9日火曜日

座禅石


南林寺・福昌寺・誓光寺の住職を勤めた名僧 円了無参和尚のもとで座禅を組み修行しました。
仲間達と「近思録」を読み、座禅を組み、志を鍛えたのです。
無参和尚の教えを受けた若き志士達が精忠組を結成し、薩摩藩の中核として明治維新を成し遂げました。
精忠組の主要メンバー 西郷隆盛・大久保利通・有馬新七・海江田信義(有村俊斎)・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・吉井友実(幸輔)・伊地知正治(竜右衛門)・税所篤(喜三左衛門)・大山綱良(格之助)・岩下方平(佐次右衛門)

アクセス
市バス 5番線 日当平線(城山・さつま団地経由) 座禅石公園下車徒歩数分


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2010年2月7日日曜日

加治屋町&甲突川


鹿児島中央駅→大久保利通誕生地→高麗橋→歴史ロード→維新ふるさと館→生い立ちの地→銅像→鹿児島中央駅と一周するコースがお勧めですが、お時間のある方は加治屋(かじや)町をぐる~りと散策してみませか。
加治屋町は明治維新の偉人を多く輩出した町です。
西郷隆盛・従道、大久保利通、伊地知正治、吉井友実、大山巌、村田新八、井上良馨、篠原国幹、山本権兵衛、東郷平八郎、黒木為楨 他 もの凄~い町なのです。
薩摩の偉人達を育んだ甲突(こうつき)川には5つの石橋がありました。江戸時代末期に岩永三五郎により架けられた五石橋は、平成5年の集中豪雨で2石橋が流失し、残った3石橋は文化遺産として石橋記念公園に移設されています。高麗橋西田橋玉江橋が残っています。この石橋の上にも薩摩の偉人達の足跡があるのです。
また、甲突川は桜の名所です。

坂本龍馬ゆかりの地鹿児島 にある加治屋町の地図をご覧ください。


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2010年2月4日木曜日

為政清明


鹿児島本線の鹿児島中央駅から鹿児島駅に向かうトンネルの上に刻まれています。
このトンネルの東側には西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」が刻まれているのです。
ここ新照院町は 大久保家の新築した家があった所です。琉球館の役宅に住んだ後、1863年の6月に転居しています。場所をご存知の方、ご一報いただけると嬉しいです。
アクセス
市バスで新照院(しんしょういん)または新上橋(しんかんばし)下車。鹿児島本線の高架が見えるので、鉄道沿いに城山の方へ歩きます。鉄道にかかった跨線橋から見ることが出来ます。

鹿児島市交通局HP


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大久保利通銅像


没後100年を記念して昭和54年に建立されました。中村晋也作。台座の高さは9.7m、銅像のみは4.3m。1878年に暗殺された時、一緒に亡くなった馬車夫と馬も銅像の後側の足元に彫られています。
大久保利通は藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くした維新三傑の一人です。明治政府樹立後は政界の中心人物として版籍奉還・廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行いました。欧米諸国視察後は内務省を設立し内務卿を兼務します。1878年に急死した時、ロンドンタイムスは「氏の死は日本全国の不幸である」と報じたそうです。座右の銘は「為政清明」。
この言葉が新照院のトンネルの上に刻まれています。また、「為政清明」の一幅は鹿児島市立美術館に収蔵されています。
アクセス
鹿児島中央駅から徒歩。また、生い立ちの地から高見橋の方へ徒歩数分。


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2010年1月28日木曜日

大久保利通生い立ちの地


高麗町で生まれ、その後、下加治屋町に引っ越しました。
3歳年上の西郷隆盛とは、薩摩独特の郷中教育の中で兄弟以上の信頼で結ばれていました。15歳で記録所書役助として出仕し、1850年のお由羅騒動で父親は遠島・利通は謹慎となりました。島津斉彬公亡き後、久光公に信頼され精忠組のリーダーとして薩摩藩を倒幕の中心勢力に育てたのです。(案内板参照)
アクセス
誕生地から高麗橋を渡り、甲突川沿いに歴史ロードを歩き、維新ふるさと館まで歩くと隣の敷地が 生い立ちの地 です。歴史ロードでは日新公のいろは歌の石柱当時の住居 二つ家をご覧いただけます。また、維新ふるさと館の東側の道路には伊地知正治誕生地の石碑があります。  
すぐ近くには西郷隆盛誕生地もあります。大久保利通生い立ちの地・西郷隆盛誕生地 両敷地にある石碑は同じ大きさ同じ文字数です。
また、高見橋の方からも行けます。



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2010年1月13日水曜日

大久保利通誕生地


1830年8月10日 利世とふくの子として高麗町に生まれました。女4人(ナカ、キチ、スマ、ミネ)、男1人の長男です。幼名 正袈裟 後に正助・一蔵・利済・利通と改名。詳細はWikipedia 大久保利通
誕生地へのアクセスです。
鹿児島中央駅からナポリ通りを歩いて12-15分くらいでしょうか。
鹿児島中央駅前の地下道を真っ直ぐ歩き、突き当りの右側にエレベーターがあります。これで地上に出ると旧鹿児島銀行の前に出ます。
ナポリ通りの北側の歩道を歩いてもいいのですが、せっかくだから西郷隆盛の宅地跡に寄り道したいと思います。
ナポリ通りの南側の歩道を歩くこと約3分で、右側に共研公園があります。ここが西郷隆盛の宅地跡です。西郷隆盛とは共に行動していた事が多かったので、ここの家に出入りしていたのではないかと私は考えます。また、ここの家には坂本龍馬が宿泊しています。坂本龍馬の足跡もこの界隈にあるのです。足跡の上に立っているかも・・と思うとワクワクします。これも史跡めぐりの楽しみの一つです。
共研公園を通り過ぎ少し歩くと左手に甲突川が見えてきます。甲突川の向こう側に 維新ふるさと館 があります。お時間のある方は是非お立ち寄りください。大久保利通・西郷隆盛の歴史を学ぶことが出来ます。ナポリ通りの北側の歩道に移動し、甲突川を左手にし数分歩くと駐車場の角の所に誕生地の石碑があります。途中、左手に見えた高麗橋にあるポール灯照明には薩摩切子が使われています。これもご覧ください。



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