タイムリーというかなんというか、6月1日は「写真の日」だって知ってましたか~。
まだ・・結論は出てないのですが、「写真の日」にあわせて経過をUPしました。(^^;汗
(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察 その2
写真を写したのは誰ダ???
"西郷群像写真"は1862年4月に撮影されたカモ・・という推測のもとで下記の本を読んでみました。
「写真術師 上野彦馬 八幡政男著 (マルジュ社発行)」(E本)
「幕末維新 ー写真が語るー 安田克廣編著 (明石書店発行)」(F本)
○ E本による上野彦馬の足跡
1858年 長崎で写真撮影に成功する。(P42-46)
1861年早春 伊勢津藩の堀江鍬次郎とともに新器械(カメラ)をもって、江戸の藤堂高猷(のり)の屋敷に出府。(P63)
1861年9月 藤堂藩主帰国に伴い一緒に津へ行く。津藩有造館洋学所助教として教える傍ら「舎密局必携」を書く。(P68-76)
1862年 彦馬数えの25歳。「舎密局必携」刊行。藤堂高猷のはからいで文溯堂伊勢屋治兵衛版元。(P76-77)(ネット調べによると1862年正月刊行)
この年に長崎に帰ります。帰る途中に京都の蘭学者広瀬元恭に「舎密局必携」を献本する。(P77)
余談ですが、この当時 写真は藩主の余興だったそうです。(P78)
長崎帰省後、内田九一、長崎の神代延祥・野口丈一、長州防府の亀谷徳次郎、熊本の富重利平などが出入りする。津から持ち帰った人物専用のカメラ操作を彦馬に教わる。(P95-96)(←←←京都に立ち寄った時も人物専用のカメラを所持していたと思われます。)
1862年 「上野写真撮影處」看板を掲げる。(P101)
1865年 弟幸馬・内田九一 大坂に出て天満に写真館を開く。(P150)
○ F本には上野彦馬の業績が詳しく書かれています。
第1章(上野一郎氏) P29に、西郷さんの写真は「ない」と書いておられます。上野一郎氏は上野彦馬の弟幸馬の孫になります。"西郷群像写真"は掲載されていません。
因みに弟幸馬は1869年に長崎を去り、神戸に写場を出したそうです。(P12)
第3章(姫野順一氏) P73に、1858年7月に上野彦馬は興福寺の境内で良順の撮影に成功したとある。
また、P88に上野撮影局の開設は1862年11月と書かれています。
☆ ほんでもって
「写真の日」に こんなんでました~
"西郷群像写真"は内田九一・幸馬が写したのではない。(1865年1869年に長崎を出ているという説による)
がしか~し、"西郷群像写真"は内田九一の原板倉庫から出てきたそうな。(B本P159) (~--)/(^^;) なんでやねん! (上記の上野氏の所には無くて当然ですね)
広瀬元恭に献本した日時を調べるとヒントが見つかるかもしれませんが、4月前後だとすると上野彦馬が写した可能性も考えられます。
当時は薩摩藩士の寺田屋騒動(4/23)前の緊迫した状況です。密かに会っていたので写真のことも公にできなかったのでは?
上野彦馬の詳細年譜を探してみたいと思います。
写真の歴史も ちょっこしカジッタだけです。これからまた、ひょんなことで何か分かるかもしれません。
また、島津三兄弟の資料を探さねばなりません。次回はいつのことになるやら。珍情報があるまで お待ちくださいまっし。
ではでは (^^)/~~~~~