★参考図書★
「上野彦馬歴史写真集成 馬場章 編者 (渡辺出版発行)2006.7」(G本)
「日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち 木下直之 資料篇 (岩波書店発行)1997.9」(H本)
「坂本龍馬写真集 宮地佐一郎著(新人物往来社)1989.1」(L本)
「幕末・明治古写真帖 菅 英志発行者(新人物往来社発行)2003.3」(M本)
「お龍 植松三十里著 (新人物往来社)2008.3」(N本)
L本(P259)によると
龍馬の現存する写真(1989.1月出版当時)は下記9種類あるそうです。(括弧内は管理人の選択)
1.卓子台によって懐手の立ち姿の写真。慶応2年頃、長崎で上野彦馬撮影。(P225,No409)
2.長刀をたばさんで椅子に腰掛けやや横向きの姿の写真。三吉家の御子孫所蔵。(P4,No10)
3.文久2年(1862年)下関か萩で撮ったといわれる最も若い時の写真。(P226,No412)
4.上半身のもの。寺田屋お登勢さんの御子孫所蔵。(P222-223?)
5.上半身のもの。京都霊山歴史館所蔵。(P226,No410)
6.上半身のもの。高知秦家所蔵 慶応弐年壱月長崎上野彦馬撮影。(P1,No1)
7.「Japan Shyashinshi」の刻字のあるもの。京都井口家所蔵。(P226,No411)
8.龍馬と伊藤助太夫・その使用人三人が座った写真。慶応年間長崎で撮影。伊藤家御子孫所蔵。(P3,No8)
9.海援隊士と一緒に6人で撮った写真。(P227,No413)
また、P86には「海舟を囲む龍馬写真」を新出写真とし、後考に委ねたいと書いておられます。
上記L本にない写真がM本の表紙にあります。
龍馬が縁台に腰掛けた写真が掲載されています。慶応2年(3年?)10月末 福井で撮影されたといわれているそうです。
N本(P132-133)には(括弧内のナンバーは管理人が上の写真から推測)
龍馬がお龍さんに上野彦馬の店で撮ってきた4枚の写真を渡し、好きな写真を選ばせています。
一枚は亀山社中の仲間6人で撮った写真(9)、龍馬一人の立ち姿の写真(1)、一人で椅子に腰掛けた写真(2)、胸から上の写真(6)の4枚です。
お龍さんは胸から上の写真(5or6?)を選んでいます。この本の後方には、姉乙女さんの所に立ち姿の写真(1)があったと書かれていました。
H本(P5)には
立ち姿の写真(1)が掲載されています。1866年撮影。
G本(P19)には
椅子に腰掛けた写真(2)が掲載されています。これは1867.1月に撮影されたものと推測され、三吉慎蔵が龍馬から譲り受けたといわれています。
上記、「龍馬の写真」をご覧になりたい方の参考になれば幸いです。
尚、括弧内の写真のナンバーは管理人の推測であります。間違いなどお気づきの方、ご指導いただけると幸いです。
坂本龍馬ゆかりの地鹿児島もご覧くださりませ。
2010年8月23日月曜日
2010年8月10日火曜日
写真を写したのは誰ダ??? その3
幕末小説から推察してみました。
★参考図書★
「大西郷謎の顔 芳 即正編著 (著作社発行)1989.12」(B本)
「寺田屋騒動 海音寺潮五郎著 (文藝春秋発行)2007.12」(J本)
「寺田屋お登勢日記 徳永信一郎 (新人物往来社)1973.2」(K本)
B本P117に
明治三十五年発行の「東洋日の出新聞」に、上野彦馬がこれまでに撮影した著名人に西郷隆盛の名を挙げていると書かれています。(日下藤吾氏の頁)
上野彦馬は西郷どんを撮影しているのです。
J本P256-7にある大久保利通の足跡
「三月三十日朝十時頃下関出帆 四月五日夜八時頃大坂着 大坂の藩の定宿寅屋一泊 六日早朝大坂藩邸へ行く 十時頃三十石船に乗る」
この足跡から考えるに、当時の照明では4月6日早朝から十時の間に撮影されたと考えられます。
大坂薩摩屋敷は上屋敷・中屋敷・下屋敷とあったようです。そのいずれかに臨時の写場をつくることも可能ですね。
K本P237から引用します。
(川田瑞穂という人が、彼女(お龍さん)を訪ねて写真を撮りたいというと「西郷さんとの申し合わせで、一生写真をとらないことにしている」といったが、「西郷さんの写真はありますよ」というと、それではということで一枚撮らせてくれたという)
西郷さんの写真があると書かれています。
そぎゃん、こぎゃんで・・・
★オバチャンの独断と偏見のかって気ままな推察★
1862年4月6日早朝から十時までの間、大坂薩摩屋敷(上・中・下屋敷のいずれか)に上野彦馬が臨時の写場を設けて"西郷群像写真"を撮影したのではありますまいか~。
当時高価な人物専用のカメラを持っていたということ、1862年に大坂にいた可能性が考えられるということ、本人が西郷どんを写したと新聞に書かれていることなどから推察しました。
では、なぜに内田九一の原板倉庫に"西郷群像写真"の原板があったのでしょうか。
参考資料はありません。独断と偏見の推察です。
3年後の1865年に、弟幸馬・内田九一が大坂天満に開業するにあたり、保管しておいた背景の置物・手置き台・写真原板などを受け継いでもらうべく、開業祝いにプレゼントされたのではありますまいか~?
このように考えると諸々の謎が解けませんか
歴ババ気分のオバチャンの推察、信じる・信じないは自己責任ぜよ♪
次回の「島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して」ですが、
しばらく資料が見つかりそうにありませぬ。
あれこれ調べていると龍馬の写真も目につくようになりました。
そこで、脱線して「龍馬の写真について」簡単に調べて見たいと思います。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」 いよいよ薩長同盟ですね。
因みに、予告編によると上野彦馬は8/22放送に登場するそうです。
★参考図書★
「大西郷謎の顔 芳 即正編著 (著作社発行)1989.12」(B本)
「寺田屋騒動 海音寺潮五郎著 (文藝春秋発行)2007.12」(J本)
「寺田屋お登勢日記 徳永信一郎 (新人物往来社)1973.2」(K本)
B本P117に
明治三十五年発行の「東洋日の出新聞」に、上野彦馬がこれまでに撮影した著名人に西郷隆盛の名を挙げていると書かれています。(日下藤吾氏の頁)
上野彦馬は西郷どんを撮影しているのです。
J本P256-7にある大久保利通の足跡
「三月三十日朝十時頃下関出帆 四月五日夜八時頃大坂着 大坂の藩の定宿寅屋一泊 六日早朝大坂藩邸へ行く 十時頃三十石船に乗る」
この足跡から考えるに、当時の照明では4月6日早朝から十時の間に撮影されたと考えられます。
大坂薩摩屋敷は上屋敷・中屋敷・下屋敷とあったようです。そのいずれかに臨時の写場をつくることも可能ですね。
K本P237から引用します。
(川田瑞穂という人が、彼女(お龍さん)を訪ねて写真を撮りたいというと「西郷さんとの申し合わせで、一生写真をとらないことにしている」といったが、「西郷さんの写真はありますよ」というと、それではということで一枚撮らせてくれたという)
西郷さんの写真があると書かれています。
そぎゃん、こぎゃんで・・・
★オバチャンの独断と偏見のかって気ままな推察★
1862年4月6日早朝から十時までの間、大坂薩摩屋敷(上・中・下屋敷のいずれか)に上野彦馬が臨時の写場を設けて"西郷群像写真"を撮影したのではありますまいか~。
当時高価な人物専用のカメラを持っていたということ、1862年に大坂にいた可能性が考えられるということ、本人が西郷どんを写したと新聞に書かれていることなどから推察しました。
では、なぜに内田九一の原板倉庫に"西郷群像写真"の原板があったのでしょうか。
参考資料はありません。独断と偏見の推察です。
3年後の1865年に、弟幸馬・内田九一が大坂天満に開業するにあたり、保管しておいた背景の置物・手置き台・写真原板などを受け継いでもらうべく、開業祝いにプレゼントされたのではありますまいか~?
このように考えると諸々の謎が解けませんか
歴ババ気分のオバチャンの推察、信じる・信じないは自己責任ぜよ♪
次回の「島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して」ですが、
しばらく資料が見つかりそうにありませぬ。
あれこれ調べていると龍馬の写真も目につくようになりました。
そこで、脱線して「龍馬の写真について」簡単に調べて見たいと思います。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」 いよいよ薩長同盟ですね。
因みに、予告編によると上野彦馬は8/22放送に登場するそうです。
写真を写したのは誰ダ??? その2
上野彦馬の1862年頃の詳細年譜または決定打なる資料はまだ見つかりませぬ(気付いてないだけかも)・・・
が、オバチャンの独断と偏見でかって気ままな推察を書き連ねてみたいと思います。(^Q^;
幕末写真から推察してみました。
★参考図書★
「上野彦馬歴史写真集成 馬場章 編者 (渡辺出版発行)2006.7」(G本)
「日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち 木下直之 資料篇 (岩波書店発行)1997.9」(H本)
「写された幕末 石黒敬七コレクション 石黒敬七著 (明石書店発行)1990.4」(I本)
推察したこと。
1.背景の置物は固定ではなく移動可能と思われる。
2.背景の置物・手置き台などは似て非なるものもあるが、同じものが複数あっても不思議でない。
3.スタジオバックで分析するのは難しいのではありますまいか~。
1.について
H本に掲載されている[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]でわかるように背景の置物の欄干は移動可能と思われます。例えば、大八車なんかで運べますね。
2.について
・同じくH本の上野彦馬撮影の[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]にみられる背景の欄干は、内田九一撮影の[18.刀を持つ侍][21.内田九一夫人像]の写真にもみられます。似ているようですが、ちょっこし違いますね。
・I本P70の上野彦馬撮影の[No3.彦馬の弟本庄鉄馬が写っている写真]の背景の欄干と、H本 内田九一撮影の[21.内田九一夫人像]の背景の欄干とは似ていますね。同じかな。
・G本上野彦馬撮影の[60.川上音次郎][65.二人彦馬][91.指輪をつけた女]に見られる手置き台と、I本P52の"西郷群像写真"に見られる手置き台とは、似て非なるものです。模様が違うのです。
上野彦馬はこのような手置き台を好んで使っていたのでは?
3.について
大八車などで移動可能ということは大坂薩摩藩邸内にスタジオバックを作ることも可能なのです。特定の写真館でなくてもよいのです。
因みに”西郷群像写真”はI本の52Pに掲載されています。石黒氏は西郷どん説ではなく、大木喬任説をとられています。
写真を写したのは誰ダ??? その3 へ続く
が、オバチャンの独断と偏見でかって気ままな推察を書き連ねてみたいと思います。(^Q^;
幕末写真から推察してみました。
★参考図書★
「上野彦馬歴史写真集成 馬場章 編者 (渡辺出版発行)2006.7」(G本)
「日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち 木下直之 資料篇 (岩波書店発行)1997.9」(H本)
「写された幕末 石黒敬七コレクション 石黒敬七著 (明石書店発行)1990.4」(I本)
推察したこと。
1.背景の置物は固定ではなく移動可能と思われる。
2.背景の置物・手置き台などは似て非なるものもあるが、同じものが複数あっても不思議でない。
3.スタジオバックで分析するのは難しいのではありますまいか~。
1.について
H本に掲載されている[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]でわかるように背景の置物の欄干は移動可能と思われます。例えば、大八車なんかで運べますね。
2.について
・同じくH本の上野彦馬撮影の[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]にみられる背景の欄干は、内田九一撮影の[18.刀を持つ侍][21.内田九一夫人像]の写真にもみられます。似ているようですが、ちょっこし違いますね。
・I本P70の上野彦馬撮影の[No3.彦馬の弟本庄鉄馬が写っている写真]の背景の欄干と、H本 内田九一撮影の[21.内田九一夫人像]の背景の欄干とは似ていますね。同じかな。
・G本上野彦馬撮影の[60.川上音次郎][65.二人彦馬][91.指輪をつけた女]に見られる手置き台と、I本P52の"西郷群像写真"に見られる手置き台とは、似て非なるものです。模様が違うのです。
上野彦馬はこのような手置き台を好んで使っていたのでは?
3.について
大八車などで移動可能ということは大坂薩摩藩邸内にスタジオバックを作ることも可能なのです。特定の写真館でなくてもよいのです。
因みに”西郷群像写真”はI本の52Pに掲載されています。石黒氏は西郷どん説ではなく、大木喬任説をとられています。
写真を写したのは誰ダ??? その3 へ続く
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