2022年10月17日月曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その7  備忘録


1.伊藤俊輔が1862年4月に京都にいたという資料

2.平野國臣について


1.について

★参考図書★

伊藤公全集 第3巻 小松緑 編 伊藤公全集刊行会 1927年出版


p18から引用します。

「云々の始末不埒に付屹度叱置」

といふ申渡で事済となった。それが三月十八日の事であった。

 第六節 長井雅樂要撃

 その翌月に、桂と公とは京都に行くことになった。それはどういう事情であったか。--


1862年1月の坂下門外の変 後、4月に桂小五郎と伊藤俊輔は京都にいたんですネ~。


2.平野國臣について


伊藤俊輔が1862.4月に京都にいたという資料・史料は非常に少ないのに比べ、

平野國臣の場合、多くの資料・史料に1862.4月に大坂薩摩藩屋敷二十八番長屋にいたということが書かれています。幕末関係の資料・史料に書かれていますので、ここでは省略します。悪しからずご了承下さいませませ。



2022年7月7日木曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その6  備忘録


島津久光家の侍医・家臣の写真


★参考図書★


1。図録 維新と薩摩  南日本放送 昭和43年発行


附録・西南戦争後から昭和までの頁


13枚目の表側の下の写真  中央 島津忠経(久光5男)・右 谷山彦右衛門(久光家臣)・左 久光侍医、 慶応3年

13枚目の裏側の左側の写真 右 島津忠欽(久光4男)・左 折田良円(家臣、医者)、慶応年間


{因みに13枚目の表側の上の写真は西郷群像写真で、小田原瑞哿(珍彦侍医)と書かれておりますが・・・恐れ多くも、私的にはズイカ様ではないのであります。そして、右端の人は総髪に見えますが、当時平野國臣は総髪でした。}

{13枚目の裏側の右側の写真は、島津忠重 9歳元服の写真です。薩摩島津古写真集によると、父島津忠義が無事息災を祈って、早目の元服の祝い事を行ったとのこと。気品のあるお顔立ちです。}


2。幕末 写真の時代 小沢健志著 筑摩書房 1994年発行


p202 島津家3人像 撮影者不詳1865-68 ガラス湿板 右より島津忠欽・島津珍彦・不明


{不明の人は、丸顔です。西郷群像写真の人とは目元が違いますね。}

=====


5男忠経は久光の侍医と一緒、4男忠欽は医者・折田良円と一緒です。

久光公のご子息達は、侍医と一緒に写真を撮ることが多かったのでしょうか?

1。の4男忠欽と一緒の折田良円と、2。の島津忠欽・島津珍彦と一緒の不明の人は違う人に見えますが・・。不明の男性はだーれだ???


2022年5月11日水曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その5  備忘録


露天写場・撮影について


★参考図書★

写真師たちの幕末維新  梅本貞雄著 緒川直人編 2014.6 国書刊行会出版


p217-218

島津久治(図書)(珍彦・忠欽の兄)は上野彦馬と面識が深く、元治元年に、彦馬初期の露天撮影場で写真を撮った事等が書かれています。

p243 初期の露天写場の様子が詳細に書かれています。


★参考図書★

華族のアルバム 倉持基著 2015.11 KADOKAWA出版


p88-93

第2章 公家のページに、岩倉具視家の写真が掲載されています。地面に敷物を敷いて写場をこしらえています。明治二年秋から三年初めに、内田九一が岩倉邸で出張撮影したと思われる湿板写真とのことです。


これらの写真から、縁側の近くに写場をこしらえて写真を撮ったことがわかります。


★参考図書★

写真術師 上野彦馬 八幡政男著 1986 マルジュ社出版


下記引用します。

p41 自製の暗箱写真器械をかついで、彦馬は告台寺へ行った。山門をうつすのである。

p44 彦馬は良順を寄宿先の本蓮寺の境内で撮影した。

p57 ロッシュが日本へきて十日目に岡部奉行を撮影することになった。彦馬は奉行の邸へ写真道具をかついで従った。

=====


写真道具をかついで・・露天写場をこしらえて・・出張撮影が出来るんデス!♪



2022年5月1日日曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その4  備忘録


1.桂小五郎が文久2年3-4月に"京都にいた"という資料

2.ヘアースタイルから考えること



1.について

★参考図書★

西郷南洲 上 伊藤痴遊著 平凡社 1934年出版


p289-290より引用します。

(安政5年の大獄以来、一時は、火の消えたやうになって居た、京都も、井伊大老の横死から、勤王派の勢力が、復活へって来て、文久2年の春を迎へてからは、一層さかんになって来た。所へ、島津久光の上洛と聞いて 非常に熱狂したのは、固より當然の事であって、殊に、毛利敬親は、其前から来て居て、桂小五郎が、目覚しい働きも、此時の事であった。急進派の連中は、久光の上洛を利用して、この際、勤王攘夷の旗上げをしよう、といふものもあって、久光の人気は、これが為に、頗る良かった。)


とあります。

桂小五郎は文久2年3-4月に京都にいたのです。

桂小五郎が京都にいたということは、従僕である俊輔もいたと考えられます。

2011年1月23日の資料2冊からも京都にいたと判断できます。

因みに、

「伊藤博文 童門冬二著」によると伊藤俊輔の名前が知られるようになったのは、1862年12月以後とのことです。1862年3-4月頃は無名だったかも。



2.について

★参考図書★

写真で見る幕末明治 小沢健志編著 世界文化社 2000年3月出版


p213にある写真

子供と老人 1860年代 ベアト

(明治の初めごろは、写真は非常に珍しいものであった。農家の子供たちであろうが、緊張した顔が子供たちの気持ちを表している。)


この写真の子供たちの頭は、月代は剃っていません。月代を剃るのは元服過ぎてからと思われます。島津忠済は文久2年は数え年8歳なので、月代は剃っていないと思われます。


それに・・それに・・

島津忠済は子供なので、写真を撮るとしたら、椅子に座らせてもらえるのではないでしょうか。大人が後ろに立つと思うのですが・・。


参考までに、

長州藩大坂蔵屋敷跡は大阪市西区土佐堀1丁目5ー17です。薩摩藩大坂屋敷までは歩いて行ける距離にあるのです。


やはり、伊藤俊輔の可能性 "大・大・大"なのデス!♪




2022年4月22日金曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その3  備忘録


上野彦馬が文久2年4月に京都・大坂にいたかも~♪という資料です。


下記のブログも再読いただけるとありがたいです。

http://ookubotoshimiti.blogspot.com/2010/06/blog-post.html


★参考図書★

☆幕末のプロカメラマン 上野彦馬  八幡政男著  長崎書房 s51.9発行☆


p80

津 岩田町の文溯堂伊勢屋治兵衛の蔵版。文久二年正月刊である。

「舎密局必携」は、はじめ、前篇三巻、中篇四巻、後篇六巻、それに付録三巻、全十六巻が計画されたが、前篇の三巻だけが刊行された。

中略

p81-82

四ヶ月というスピードでかきあげたこの本は、写真家にとっては貴重な手引書になった。

津だけでなく、江戸(和泉屋金兵衛)、京都(三条通り御幸町吉野屋仁兵衛)、大坂(心斎橋筋北久太郎町河内屋喜兵衛)などの本屋が、競って発行をひきうけた。


p86

上野彦馬が長崎へかえったのは、文久二年の秋であった。

中略

彦馬は松本良順に帰郷のあいさつをし、帰途、京都に立ち寄ったさい、広瀬元恭に会った話などをした。

=====


京都・大坂でも「舎密局必携」を発行しているので文久2年4月に、上野彦馬が"京都・大坂にいた"可能性は大・大・大なのデス!♪


2022年1月30日日曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その2    備忘録


過去に、「フルベッキとその塾生たちの写真」に西郷どんが写っていると話題になったことがありますが・・・、

下記の本にある写真で、西郷どんらしい人→床次正義であるということがわかります。


★参考図書★


☆図録 維新と薩摩   南日本放送  昭和43年発行☆


この本にはページ数が書いてありません。


1.維新の原動力・島津斉彬

の項目をめくっていくと写真が掲載されています。


写真の説明

===

慶応3年長崎に留学中の薩藩学生

中央、島津図書(久光二男) 後列右より床次正義・原田淳林・本田恕右衛門・江夏*介・平田島津家家来・仁礼源之丞・相良次大夫・伊地知壮之丞・伊集院彦助・喜入雄次郎・前列の2名は不詳。

===


合計13名です。

この右端の背の高い男性・床次正義が、フルベッキ写真に同じ様な横顔で立っております。


西郷どんではなくて、慶応3年長崎に留学中の薩藩学生・床次正義と判断出来ると思います。


☆大西郷謎の貌  芳 即正☆


p186より

島津久光二男 久治 (初久中、徳次郎、右近、図書)天保12年辛丑 4月25日生

=========

wikipedia  島津久治


島津久治(図書)公は宮之城家15代当主です。

下記のHPに長崎留学中の薩藩学生の写真があります。

宮之城島津家について書かれているHP →

https://www.satsuma-net.jp/bunka/documents/miyanojou_shimaduke_panf_kai.pdf