2022年5月11日水曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その5  備忘録


露天写場・撮影について


★参考図書★

写真師たちの幕末維新  梅本貞雄著 緒川直人編 2014.6 国書刊行会出版


p217-218

島津久治(図書)(珍彦・忠欽の兄)は上野彦馬と面識が深く、元治元年に、彦馬初期の露天撮影場で写真を撮った事等が書かれています。

p243 初期の露天写場の様子が詳細に書かれています。


★参考図書★

華族のアルバム 倉持基著 2015.11 KADOKAWA出版


p88-93

第2章 公家のページに、岩倉具視家の写真が掲載されています。地面に敷物を敷いて写場をこしらえています。明治二年秋から三年初めに、内田九一が岩倉邸で出張撮影したと思われる湿板写真とのことです。


これらの写真から、縁側の近くに写場をこしらえて写真を撮ったことがわかります。


★参考図書★

写真術師 上野彦馬 八幡政男著 1986 マルジュ社出版


下記引用します。

p41 自製の暗箱写真器械をかついで、彦馬は告台寺へ行った。山門をうつすのである。

p44 彦馬は良順を寄宿先の本蓮寺の境内で撮影した。

p57 ロッシュが日本へきて十日目に岡部奉行を撮影することになった。彦馬は奉行の邸へ写真道具をかついで従った。

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写真道具をかついで・・露天写場をこしらえて・・出張撮影が出来るんデス!♪



2022年5月1日日曜日

 西郷どん、みーつけた♪  追加資料 その4  備忘録


1.桂小五郎が文久2年3-4月に"京都にいた"という資料

2.ヘアースタイルから考えること



1.について

★参考図書★

西郷南洲 上 伊藤痴遊著 平凡社 1934年出版


p289-290より引用します。

(安政5年の大獄以来、一時は、火の消えたやうになって居た、京都も、井伊大老の横死から、勤王派の勢力が、復活へって来て、文久2年の春を迎へてからは、一層さかんになって来た。所へ、島津久光の上洛と聞いて 非常に熱狂したのは、固より當然の事であって、殊に、毛利敬親は、其前から来て居て、桂小五郎が、目覚しい働きも、此時の事であった。急進派の連中は、久光の上洛を利用して、この際、勤王攘夷の旗上げをしよう、といふものもあって、久光の人気は、これが為に、頗る良かった。)


とあります。

桂小五郎は文久2年3-4月に京都にいたのです。

桂小五郎が京都にいたということは、従僕である俊輔もいたと考えられます。

2011年1月23日の資料2冊からも京都にいたと判断できます。

因みに、

「伊藤博文 童門冬二著」によると伊藤俊輔の名前が知られるようになったのは、1862年12月以後とのことです。1862年3-4月頃は無名だったかも。



2.について

★参考図書★

写真で見る幕末明治 小沢健志編著 世界文化社 2000年3月出版


p213にある写真

子供と老人 1860年代 ベアト

(明治の初めごろは、写真は非常に珍しいものであった。農家の子供たちであろうが、緊張した顔が子供たちの気持ちを表している。)


この写真の子供たちの頭は、月代は剃っていません。月代を剃るのは元服過ぎてからと思われます。島津忠済は文久2年は数え年8歳なので、月代は剃っていないと思われます。


それに・・それに・・

島津忠済は子供なので、写真を撮るとしたら、椅子に座らせてもらえるのではないでしょうか。大人が後ろに立つと思うのですが・・。


参考までに、

長州藩大坂蔵屋敷跡は大阪市西区土佐堀1丁目5ー17です。薩摩藩大坂屋敷までは歩いて行ける距離にあるのです。


やはり、伊藤俊輔の可能性 "大・大・大"なのデス!♪