★ 西郷隆盛の写真について読みやすく(?)なればと思い、電子書籍風にしてみました。
西郷どん みーつけた♪
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西郷どん みーつけた♪pdfファイル
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☆☆☆
文久2年4月23日寺田屋騒動は、西暦だと1862年5月21日になるそうです。
本日は、150年前に寺田屋騒動があった日なんですね。
そして、金環日食の記念すべき日でした。
2012年4月6日金曜日
西郷群像写真 左から二人目を身長から推測
本日は、西郷群像写真を撮影したと考えられる文久2年(1862年)4月6日から、150年目にあたる節目の年、オバチャン的記念すべき日であります。
オバチャン的にはこの写真が 西郷どん唯一の写真だと推定しているのですが、いまいち資料不足かも・・・。
そこで、身長から考えてみることにしました。
伊藤博文 天保12年(1841年)9月2日生 1862年4月 数え年22才
島津忠欽 弘化2年(1845年)11月23日生 1862年4月 数え年18才
島津忠済 安政2年(1855年)3月9日生 1862年4月 数え年8才
ネット調べによると、
現在の小学二年生男子(満7-8才)の平均身長は120-130㎝ぐらいでしょうか。
そして、高校三年生男子(満17-18才)は170㎝ぐらいでしょうか
現在の発育状態では10年間で40-50㎝の身長差があります。
忠欽さんと忠済さんは10才の年齢差です。
写真の場合、10年でこの身長差はありえないと考えられます。
まさか・・高下駄を履いていたとは思えませんが。
幕末当時の栄養状態で想像するに
身長は、少なくとも頭ひとつぐらいの差があっていいと思われるのです。
身長から推測すると、左から二人目は”島津忠済さんではない”と考えられます。
幕末当時の交通事情で、数え年8才の子供に長期遠征は無理かも。
珍彦・忠欽さんと忠済さんは異母兄弟です。親密さはどの程度でしょうか。
そして、Wikipediaの晩年の伊藤博文公の写真の頭の形とおでこが西郷群像写真の左から二人目にそっくりくり~と思えるのです。
そんなわけで・・・オバチャン的150年目の推測は
左から二人目は伊藤俊輔(博文)になるのです。 (^.^)
オバチャン的にはこの写真が 西郷どん唯一の写真だと推定しているのですが、いまいち資料不足かも・・・。
そこで、身長から考えてみることにしました。
伊藤博文 天保12年(1841年)9月2日生 1862年4月 数え年22才
島津忠欽 弘化2年(1845年)11月23日生 1862年4月 数え年18才
島津忠済 安政2年(1855年)3月9日生 1862年4月 数え年8才
ネット調べによると、
現在の小学二年生男子(満7-8才)の平均身長は120-130㎝ぐらいでしょうか。
そして、高校三年生男子(満17-18才)は170㎝ぐらいでしょうか
現在の発育状態では10年間で40-50㎝の身長差があります。
忠欽さんと忠済さんは10才の年齢差です。
写真の場合、10年でこの身長差はありえないと考えられます。
まさか・・高下駄を履いていたとは思えませんが。
幕末当時の栄養状態で想像するに
身長は、少なくとも頭ひとつぐらいの差があっていいと思われるのです。
身長から推測すると、左から二人目は”島津忠済さんではない”と考えられます。
幕末当時の交通事情で、数え年8才の子供に長期遠征は無理かも。
珍彦・忠欽さんと忠済さんは異母兄弟です。親密さはどの程度でしょうか。
そして、Wikipediaの晩年の伊藤博文公の写真の頭の形とおでこが西郷群像写真の左から二人目にそっくりくり~と思えるのです。
そんなわけで・・・オバチャン的150年目の推測は
左から二人目は伊藤俊輔(博文)になるのです。 (^.^)
2012年3月6日火曜日
西郷どんは複数の長州藩士と会っていた
西郷どんが1862年4月に、長州藩士の久坂玄瑞・宍戸九郎兵衛・来原良蔵・時山直八・大坂頭人等に会っていたという資料です。
★参考資料★
「寺田屋騒動 長谷川伸著 (改造社発行)s11.6.20」(U本)
「醒めた炎 上巻 村松剛著 (中央公論社)s62.7.25」(V本)
「来原良蔵伝 上巻 妻木忠太著 (妻木忠太発行)s15.11.5」(W本)
「西郷と大久保と久光 海音寺潮五郎著 (朝日新聞社)s53.10.10」(P本)
U本P293から引用します。
(久坂は、宍戸九郎兵衛と同行して、大阪の薩摩屋敷に西郷を訪ねた。)
V本P354から引用します。
(来原に長井は、時山直八を随行させた。・・・
・・2行飛ばし・・
大坂で来原の口上をきき、西郷は激怒した。長井の航海遠略説は朝廷を欺いて開港にもちこませ、幕府に恩を売ることを目的としていると判断したのである。
・・9行飛ばし・・
・・・その間に西郷は長州藩の大坂頭人、宍戸九郎兵衛と会って長井が宮廷工作に莫大な金品をつかったことをたしかめ、・・・・・)
W本P96から引用します。
(同月晦日 君、周布正之助の東下を送りて蹴上に至る是日奥平数馬君の意気弛緩を桂小五郎に告ぐ
四月朔日 君、京都を発して伏見より乗船し翌二日大坂に至りて鹿児島藩大島三右衛門を訪ふ小河弥右衛門来たりて之に会す)
P本P175より引用します。
(すなわち西郷としては、もし久光が討幕に踏み切ることになれば、長州藩は最もよい相棒になると考えたはずです。すでに長州の精神を、西郷は下関で見て来ています。これと関係を密にしておくことは最も必要な措置と考えるのは当然です。・・・)
上記から判断するに、
伊藤俊輔(博文)も長州藩士です。西郷どんと会った可能性大と思われます。
また、
W本から、1862年3月晦日に桂小五郎は京都にいたと推定できますね。
桂の従僕である伊藤俊輔も、この時京都にいたと考えられます。
伊藤俊輔(博文)の可能性が益々高まってきました。
★参考資料★
「寺田屋騒動 長谷川伸著 (改造社発行)s11.6.20」(U本)
「醒めた炎 上巻 村松剛著 (中央公論社)s62.7.25」(V本)
「来原良蔵伝 上巻 妻木忠太著 (妻木忠太発行)s15.11.5」(W本)
「西郷と大久保と久光 海音寺潮五郎著 (朝日新聞社)s53.10.10」(P本)
U本P293から引用します。
(久坂は、宍戸九郎兵衛と同行して、大阪の薩摩屋敷に西郷を訪ねた。)
V本P354から引用します。
(来原に長井は、時山直八を随行させた。・・・
・・2行飛ばし・・
大坂で来原の口上をきき、西郷は激怒した。長井の航海遠略説は朝廷を欺いて開港にもちこませ、幕府に恩を売ることを目的としていると判断したのである。
・・9行飛ばし・・
・・・その間に西郷は長州藩の大坂頭人、宍戸九郎兵衛と会って長井が宮廷工作に莫大な金品をつかったことをたしかめ、・・・・・)
W本P96から引用します。
(同月晦日 君、周布正之助の東下を送りて蹴上に至る是日奥平数馬君の意気弛緩を桂小五郎に告ぐ
四月朔日 君、京都を発して伏見より乗船し翌二日大坂に至りて鹿児島藩大島三右衛門を訪ふ小河弥右衛門来たりて之に会す)
P本P175より引用します。
(すなわち西郷としては、もし久光が討幕に踏み切ることになれば、長州藩は最もよい相棒になると考えたはずです。すでに長州の精神を、西郷は下関で見て来ています。これと関係を密にしておくことは最も必要な措置と考えるのは当然です。・・・)
上記から判断するに、
伊藤俊輔(博文)も長州藩士です。西郷どんと会った可能性大と思われます。
また、
W本から、1862年3月晦日に桂小五郎は京都にいたと推定できますね。
桂の従僕である伊藤俊輔も、この時京都にいたと考えられます。
伊藤俊輔(博文)の可能性が益々高まってきました。
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