2010年10月20日水曜日

「桜田門外の義挙」その時 大久保利通は

2010年秋、映画"桜田門外ノ変"が公開されています。
この義挙で井伊直弼の首級をあげたのは 薩摩隼人 有村次左衛門なんです。凄いですね~。
有村雄介・次左衛門兄弟の誕生之地は大久保利通誕生之地から歩いて数分の所にあります。
維新のふるさと 加治屋町界隈地図
この義挙の頃の大久保どんの足跡を追っかけて、オバチャンはまた 本をめくり ネットで検索するのであります。

★参考図書★
「幕末政治と薩摩藩 佐々木克著 (吉川弘文館発行)2004.10.20」
「薩摩熱風録 有村次左衛門と桜田門外の義挙 渡辺宏著 (南風新社発行)2006.7.1」

1858(安政五年)
4.23 彦根藩主井伊直弼大老就任
6.19 勅許無しの日米修好通商条約調印 
6.25 紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣に正式決定
7.16 島津斉彬急逝 
9月 安政の大獄始まる
11.16 西郷・月照入水 西郷蘇生
11.29 西郷 島送りの処分決定。西郷の後は大久保が誠(精)忠組を引っ張っていくこととなる。

1859(安政六年)
1.2 山川港の西郷に大久保の手紙を伊地知正治が届ける。
2月初め、有村雄介江戸に発つ。3月中旬江戸着。
6.21 水戸の金子・高橋と薩摩の堀・樺山が「井伊ヲ除ク」の密談をする。9月中旬に決行予定が後に変更となる。
9.4 大久保から江戸の堀・有村雄介宛てに手紙を出し、「突出」の心構えを伝える。
9.17 江戸から樺山が伊集院に到着。大久保ら誠忠組「突出」の決行を決意。
しかしこの「突出」は無くて、「突出」体制は続いていく。
11.5.6 薩摩藩主茂久・久光より大久保に書簡が届く。
11月下旬 大久保は江戸の誠忠組に 挙藩一致してやることに決まった旨を手紙で連絡する。
11月中旬 高崎・堀に帰藩が命じられる。翌年正月5日に帰藩。江戸は有村兄弟と山口・田中の四人となる。
12月下旬 大久保が自ら出府し同志の説得をすることを藩庁に嘆願するが許可されず。

1860(万延元年 安政七年)
1.10過ぎ 江戸薩摩屋敷にて水戸藩士の木村聿・畑以徳・内藤幸介と有村雄介・有村次左衛門・田中直之進らが会い、井伊大老襲撃計画を告げ相談する。薩摩藩には京都守衛のための出兵をお願いする。
1.19 山口が薩摩に派遣され、三千の出兵と応援の出府を働きかけることとする。2.4に薩摩着。山口の報告を受け大久保らは、書面で久光と主席家老島津下総に報告。堀が江戸出張許可となる。
2.18 堀が薩摩を出発。その間の打ち合わせで、「変事」があった場合 禁裏守衛のため藩兵を派遣する体制が作られた。3.13に藩主茂久の参勤出府も予定されていた。
2.21 江戸から田中が薩摩着。(2.1に江戸発。)この時、江戸には有村兄弟のみ。
1.27-1.末までの新たな大老襲撃の計画を報告。田中が江戸を発った後、さらに有村兄弟と水戸側で話が煮詰められ、斬奸の目標は井伊大老にしぼられ、場所は「桜田外」となる。有村兄弟はすぐにも加勢するが、他にも相談すること、薩摩から三千人上京が確約できること、ただしできれば田中が江戸に帰るまで待ってほしいことなど水戸側に述べる。田中の報告を聞いて「同志中勃起イタシ」と大久保は日記に記す。
2.21 大久保利通は家老蓑田伝兵衛と児玉雄一郎を通して久光に出兵を内願する。大久保は出兵の建白書を藩庁に出す。
2.23 久光より「未前」の出兵は出来ないとの返事。誠忠組で大議論の末、自重論となる。誠忠組は久光の意見に従う返事をし、26日藩庁から「変事」の報があった場合は人数を繰り出すという返事がある。
2.25 田中は江戸に出発。
3.1 日本橋西河岸の山崎楼に木村・関・斉藤・稲田・佐藤・雄介・金子集合。襲撃の期日は明後三日とする。
☆ 3.3  井伊直弼桜田門外で襲撃される。有村次左衛門が井伊の首級をあげる。重傷を負い自刃。
3.8 藩主茂久の参勤発駕の付き人に誠忠組は外される。
3.11 大久保は初めて久光に面会し、誠忠組の心情を伝える。
3.13 藩主茂久は参勤初駕出発。変報を知り23日筑後松崎駅から病気を理由に引き返す。
3.23 桜田門外の変が藩庁に届く。この夜、有村雄介薩摩着。切腹を命ぜられる。「愁傷憤慨、不可言」と大久保は日記に記す。
3.24 大久保は久光邸に行き出兵を要求するが、これは水戸脱藩浪人による事件で「兵乱」とはみなせない・・諸々の理由で出兵ならず。事態が動けば出兵もありうるという久光の言葉に期待して引き下がる。
誠忠組の「突出」は一度も実行されることなく終息するのである。


来年三月九州新幹線が全開通します。鹿児島中央駅から維新のふるさと加治屋町はすぐです。
ぐる~りと散策出来ます。薩摩隼人達の熱い想いを感じてみませんか。

上記の間違い等は管理人の自己責任でありまする。お気付きの点などご指導いただけると幸いです。メール

2010年10月6日水曜日

島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して     その1

(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その3

★参考図書★
「国乃礎 杉本勝二郎編 (国乃礎編輯所発行)明治28年発行」(O本)
「西郷と大久保と久光 海音寺潮五郎著 (朝日新聞社発行)1978.10.10」(P本)

島津三兄弟 珍彦・忠欽・忠斉は
忠斉→忠済のようです。五男・六男・七男説がありますが、O本には第六子安政二年三月九日生とあります。

O本P40-45が島津忠済公爵のページです。古い文体で書かれています。オバチャンには難しい文体であります。エライコッチャ (TT;
ここには忠済さんのことよりも父親久光公の足跡が書かれていて、P41-42に文久2年3月上京のことが書かれています。
忠済さんは父親久光公の上京と何らかの関係があるのでここに書かれているのかも・・そうに違いない・・というのがオバチャン流解釈です。(^^;
大坂薩摩屋敷にいたとすると、先発したことになりますね。

☆この「国乃礎」本は、鹿児島県立図書館の相談員の方にご協力いただきました。心からお礼申しあげます。m(..)m

P本P194に、岩下方平・町田久成さんが二百人の兵を率いて汽船で日向の細島から大坂に向かい、久光公が八百の兵を率い総数千人ということが書かれています。
忠済さんは当時満7歳ですから、陸路より海路を選んだと思われます。
久光公とは別行動の可能性がありますね。
島津三兄弟は海路で上坂したのではありますまいか~。

島津兄弟の資料をもう少し探してみたいと思います。
来年以降になるかもしれませんが・・しばらく・・お待ちくださいまし。