2010年5月29日土曜日

西郷隆盛と大久保利通の写真

(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察 その1

西郷どん追っかけ をしているオバチャン、偶然にも西郷どんの写真に辿り着いた感があります。

歴史を知ろうとすると、あちらこちらに飛んでその繋がりを知らねばチンプンカンプンになるのです。
平野国臣と伊牟田尚平の関係を知りたくて「革命の旅人 平野国臣の生涯 森田芳雄著 (新人物往来社発行)」(A本)を読んでいました。
P155に(臍の緒を切って初めての、記念撮影だけをして、京か伏見でゆっくり会おうということで別れた。) という箇所があります。
西郷どんは写真は嫌いだった・・とか、写真はない・・という説があるのに、この箇所から判断するに、平野国臣・西郷隆盛・大久保利道が一緒に写真を撮ったことになるのです。
ん??? これがやはり西郷隆盛の写真かも? カモ? 鴨? と本をめくり、ネットを検索してみました。

そして「大西郷謎の顔 芳 即正編著 (著作社発行)」(B本P113ーP132)の日下藤吾氏の考察がより近いのではと考えるようになったのです。諸々の考察がな~るほど~そうかも~と思えるのです。
撮影場所は大坂薩摩屋敷または大坂の写真館あたりとオバチャンは推測するのであります。なぜなら、京か伏見で会おうということなのでそれ以外に考えられるのは大坂です。
撮影日時は1862年4月5-6日頃です。「大久保利通 中村晃著 (PHP研究所発行)」(C本)によると、大久保利通は久光公と別れ1862年3月31日に下関から乗船し、4月6日夜に伏見で西郷どんと会っています。西郷どんの場合、22日に下関を出帆して27日に大坂着。30日に本田親雄の尽力で宇治万碧楼に潜伏中(「西郷隆盛年譜 山田尚二著 (西郷南洲顕彰会発行)」)。下関から大坂まで5日で到着したらしい。であるからして、大久保利通は4月5日-6日に大坂薩摩屋敷にいたのでは? と推定できるのです。上記のA本(P154-155)によると、大久保利通は密かに西郷どんと平野国臣に会っていたのです!!

"西郷群像写真"といわれている6人の武士が写っている写真がB本(1989年(平成1年)出版)にあります。
とうの昔に是非を問われていますが・・・、オバチャンの考察はこうであります。

向かって右側が平野国臣。なぜならば、日下藤吉氏が書かれているように腰にあるのは横笛と刀に見えるのです。拡大鏡で見てみたら下の方が笛(鍔がない)のように見える。他の5人は同じような羽織です。右から3人目の羽織に丸に十の字の紋が確認できます。5人は薩摩の人の可能性大。平野国臣は横笛を嗜んでいました。月照さんの入水の時も(A本P74)、真木和泉の面会の時も(A本P121)笛を吹いているのです。
右から二人目が西郷隆盛。ビコーズ、平野国臣は命の恩人です。肩に手を置かれても不思議ではないのです。
向かって左側が大久保利通。ビコーズ、B本P169に明治二年頃撮影された大久保利通と島津二兄弟の写真があります。3人の顔が上記の写真とよく似ているのです。明治という時代の島津兄弟は洋服です。大久保利通と島津兄弟は親しかったのですね。
残り3人は日下藤吾氏と同じく島津三兄弟だと思います。A本には島津三兄弟については書かれていませんが、島津三兄弟は久光公の上京に先立ち大坂薩摩屋敷にいた可能性大であります。

ちなみに司馬遼太郎の"「明治」という国家"にも"西郷群像写真"が掲載されていました。これが西郷隆盛と断定した書き方ではないようですが。

このように文字を並べたオバチャン "歴ババ"らしくなったぜよ~~~(^Q^)
上記 信じる信じないは自己責任ぜよ♪

次回の (~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その2は
写真を写したのは誰ダ???
そして (~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その3は
島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して。


追記:記述に一部不確実な所がありましたので、削除しました。お詫び申し上げます。m(..)mm(..)mm(..)m
2011.5.24