2010年10月6日水曜日

島津兄弟が大坂屋敷にいたという資料を探して     その1

(~--)/(^^;) なんでやねん! オバチャンの考察その3

★参考図書★
「国乃礎 杉本勝二郎編 (国乃礎編輯所発行)明治28年発行」(O本)
「西郷と大久保と久光 海音寺潮五郎著 (朝日新聞社発行)1978.10.10」(P本)

島津三兄弟 珍彦・忠欽・忠斉は
忠斉→忠済のようです。五男・六男・七男説がありますが、O本には第六子安政二年三月九日生とあります。

O本P40-45が島津忠済公爵のページです。古い文体で書かれています。オバチャンには難しい文体であります。エライコッチャ (TT;
ここには忠済さんのことよりも父親久光公の足跡が書かれていて、P41-42に文久2年3月上京のことが書かれています。
忠済さんは父親久光公の上京と何らかの関係があるのでここに書かれているのかも・・そうに違いない・・というのがオバチャン流解釈です。(^^;
大坂薩摩屋敷にいたとすると、先発したことになりますね。

☆この「国乃礎」本は、鹿児島県立図書館の相談員の方にご協力いただきました。心からお礼申しあげます。m(..)m

P本P194に、岩下方平・町田久成さんが二百人の兵を率いて汽船で日向の細島から大坂に向かい、久光公が八百の兵を率い総数千人ということが書かれています。
忠済さんは当時満7歳ですから、陸路より海路を選んだと思われます。
久光公とは別行動の可能性がありますね。
島津三兄弟は海路で上坂したのではありますまいか~。

島津兄弟の資料をもう少し探してみたいと思います。
来年以降になるかもしれませんが・・しばらく・・お待ちくださいまし。