西郷どんが1862年4月に、長州藩士の久坂玄瑞・宍戸九郎兵衛・来原良蔵・時山直八・大坂頭人等に会っていたという資料です。
★参考資料★
「寺田屋騒動 長谷川伸著 (改造社発行)s11.6.20」(U本)
「醒めた炎 上巻 村松剛著 (中央公論社)s62.7.25」(V本)
「来原良蔵伝 上巻 妻木忠太著 (妻木忠太発行)s15.11.5」(W本)
「西郷と大久保と久光 海音寺潮五郎著 (朝日新聞社)s53.10.10」(P本)
U本P293から引用します。
(久坂は、宍戸九郎兵衛と同行して、大阪の薩摩屋敷に西郷を訪ねた。)
V本P354から引用します。
(来原に長井は、時山直八を随行させた。・・・
・・2行飛ばし・・
大坂で来原の口上をきき、西郷は激怒した。長井の航海遠略説は朝廷を欺いて開港にもちこませ、幕府に恩を売ることを目的としていると判断したのである。
・・9行飛ばし・・
・・・その間に西郷は長州藩の大坂頭人、宍戸九郎兵衛と会って長井が宮廷工作に莫大な金品をつかったことをたしかめ、・・・・・)
W本P96から引用します。
(同月晦日 君、周布正之助の東下を送りて蹴上に至る是日奥平数馬君の意気弛緩を桂小五郎に告ぐ
四月朔日 君、京都を発して伏見より乗船し翌二日大坂に至りて鹿児島藩大島三右衛門を訪ふ小河弥右衛門来たりて之に会す)
P本P175より引用します。
(すなわち西郷としては、もし久光が討幕に踏み切ることになれば、長州藩は最もよい相棒になると考えたはずです。すでに長州の精神を、西郷は下関で見て来ています。これと関係を密にしておくことは最も必要な措置と考えるのは当然です。・・・)
上記から判断するに、
伊藤俊輔(博文)も長州藩士です。西郷どんと会った可能性大と思われます。
また、
W本から、1862年3月晦日に桂小五郎は京都にいたと推定できますね。
桂の従僕である伊藤俊輔も、この時京都にいたと考えられます。
伊藤俊輔(博文)の可能性が益々高まってきました。