西郷どん、みーつけた♪ 追加資料 その4 備忘録
1.桂小五郎が文久2年3-4月に"京都にいた"という資料
2.ヘアースタイルから考えること
1.について
★参考図書★
西郷南洲 上 伊藤痴遊著 平凡社 1934年出版
p289-290より引用します。
(安政5年の大獄以来、一時は、火の消えたやうになって居た、京都も、井伊大老の横死から、勤王派の勢力が、復活へって来て、文久2年の春を迎へてからは、一層さかんになって来た。所へ、島津久光の上洛と聞いて 非常に熱狂したのは、固より當然の事であって、殊に、毛利敬親は、其前から来て居て、桂小五郎が、目覚しい働きも、此時の事であった。急進派の連中は、久光の上洛を利用して、この際、勤王攘夷の旗上げをしよう、といふものもあって、久光の人気は、これが為に、頗る良かった。)
とあります。
桂小五郎は文久2年3-4月に京都にいたのです。
桂小五郎が京都にいたということは、従僕である俊輔もいたと考えられます。
2011年1月23日の資料2冊からも京都にいたと判断できます。
因みに、
「伊藤博文 童門冬二著」によると伊藤俊輔の名前が知られるようになったのは、1862年12月以後とのことです。1862年3-4月頃は無名だったかも。
2.について
★参考図書★
写真で見る幕末明治 小沢健志編著 世界文化社 2000年3月出版
p213にある写真
子供と老人 1860年代 ベアト
(明治の初めごろは、写真は非常に珍しいものであった。農家の子供たちであろうが、緊張した顔が子供たちの気持ちを表している。)
この写真の子供たちの頭は、月代は剃っていません。月代を剃るのは元服過ぎてからと思われます。島津忠済は文久2年は数え年8歳なので、月代は剃っていないと思われます。
それに・・それに・・
島津忠済は子供なので、写真を撮るとしたら、椅子に座らせてもらえるのではないでしょうか。大人が後ろに立つと思うのですが・・。
参考までに、
長州藩大坂蔵屋敷跡は大阪市西区土佐堀1丁目5ー17です。薩摩藩大坂屋敷までは歩いて行ける距離にあるのです。
やはり、伊藤俊輔の可能性 "大・大・大"なのデス!♪