上野彦馬の1862年頃の詳細年譜または決定打なる資料はまだ見つかりませぬ(気付いてないだけかも)・・・
が、オバチャンの独断と偏見でかって気ままな推察を書き連ねてみたいと思います。(^Q^;
幕末写真から推察してみました。
★参考図書★
「上野彦馬歴史写真集成 馬場章 編者 (渡辺出版発行)2006.7」(G本)
「日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち 木下直之 資料篇 (岩波書店発行)1997.9」(H本)
「写された幕末 石黒敬七コレクション 石黒敬七著 (明石書店発行)1990.4」(I本)
推察したこと。
1.背景の置物は固定ではなく移動可能と思われる。
2.背景の置物・手置き台などは似て非なるものもあるが、同じものが複数あっても不思議でない。
3.スタジオバックで分析するのは難しいのではありますまいか~。
1.について
H本に掲載されている[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]でわかるように背景の置物の欄干は移動可能と思われます。例えば、大八車なんかで運べますね。
2.について
・同じくH本の上野彦馬撮影の[6.上田藩主松平忠礼と三人の藩士][7.松平忠直と三人の男]にみられる背景の欄干は、内田九一撮影の[18.刀を持つ侍][21.内田九一夫人像]の写真にもみられます。似ているようですが、ちょっこし違いますね。
・I本P70の上野彦馬撮影の[No3.彦馬の弟本庄鉄馬が写っている写真]の背景の欄干と、H本 内田九一撮影の[21.内田九一夫人像]の背景の欄干とは似ていますね。同じかな。
・G本上野彦馬撮影の[60.川上音次郎][65.二人彦馬][91.指輪をつけた女]に見られる手置き台と、I本P52の"西郷群像写真"に見られる手置き台とは、似て非なるものです。模様が違うのです。
上野彦馬はこのような手置き台を好んで使っていたのでは?
3.について
大八車などで移動可能ということは大坂薩摩藩邸内にスタジオバックを作ることも可能なのです。特定の写真館でなくてもよいのです。
因みに”西郷群像写真”はI本の52Pに掲載されています。石黒氏は西郷どん説ではなく、大木喬任説をとられています。
写真を写したのは誰ダ??? その3 へ続く